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夢のある話

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「長期的に被災地を応援したい」想いをかたちに、全力で走り続ける。株式会社レヴァーク 時井勇樹さん

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幼いころから、「防災」意識が身近にあった

復興支援活動に取り組む若手起業家として活躍されている時井さんは、阪神・淡路大震災発生当時、まだ4歳。記憶がおぼろげだったであろうにもかかわらず、意識のかたすみには常に「防災」というキーワードが刻まれていたようです。時井さんの人生を決定づけたのは、一体どんなコトだったのでしょうか。
阪神・淡路大震災発生当時は、神戸の北に隣接する三木市に住んでいました。大きな被害はなかったものの、一時的にライフラインが停止していたそうです。震災発生当時は4歳だったので断片的な記憶しかありませんが、大きな揺れを感じたことや、両親と川の字で寝ていて、母がおおいかぶさって守ってくれたことなどを覚えています。あちこちに電話をかけるなど、落ち着かない両親の様子を目の当たりにして、子ども心に異変を感じました。大人になってから両親に話を聞く機会があって、断片的な記憶と重なり、今の記憶が醸成されていったのかもしれません。

震災後はご両親の転勤により、小学校から高校までを静岡ですごします。静岡では東海大地震へのそなえや対策が活発におこなわれており、防災意識の高い県として知られているそうです。
静岡では、定期的に防災訓練がおこなわれていました。ため池の水をろ過する方法を住民が知っていたり、集会所に食料がたくさんたくわえてあったり。僕が住んでいた地域は、隣に住む人の名前を知らないなんてありえないような、コミュニティの結束が強い地域でした。人と人が明確につながっていて、防災教育が浸透しやすい環境だったのでしょうね。


人生を決定づけた、ゼミでの活動

その後、神戸の大学へ進学。東日本大震災で甚大な被害を受けた東北地方の被災地に街灯をおくる「神戸ともしびプロジェクト」をスタートし、復興支援を長期的におこないたいと、大学を卒業する直前に株式会社レヴァークを設立します。パワフルで前向きな、現在のさまざまな取り組みに至る源は、かけがえのない仲間や先生に出会った大学時代にあったそうです。
大きな転機となったのは、ゼミでの活動でした。観光業や接客業など、見えないサービスや価値を対象とした「サービスマーケティング」を学ぶゼミで、どんな学生でも歓迎してくれて、個人のおもしろさをひきだしてくれる先生と出会ったんです。ゼミはいつも雑談からはじまって、討論に入っていくというスタイルでした。

一方的に講義をおこなうことなく、先生と生徒が「学び合う」ゼミに所属した時井さんは、防災という分野について少しずつ学んでいくことになります。
サービスについて勉強しようと思ったら、地域のコミュニティがどのように成り立っているのかを知る必要があるのではないか、という話が出たんです。ちょうどそのころ、ラジオ関西さんから「災害発生時に必要な情報を発信するために、その地域の人々が自分たちで中継車を活用してラジオという媒体を運用できるか」というテーマのプログラムが持ち込まれたため、地域というものについて知るために挑戦することになりました。学生が活用できれば地域の方々にもできるだろうという仮定のもとに、ラジオ中継車の試験運用がおこなわれたんです。そこから、防災や減災を軸にすえた活動がはじまりました。

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防災を、体感しながら学んでいった

ゼミ生は、阪神・淡路大震災を経験していても実状をほとんど知らない、具体的な経験としてはほぼ記憶していない世代です。そのため、時井さんたちのゼミ活動は、被災した経験のある方に話を聞くことからスタートしました。
神戸市長田区で被災した経験のある方にお話をうかがう機会があり、そういえば僕たち家族が住んでいた三木市はどうだったんだろう、と思って両親にも聞いてみました。そうしてはじめて、当時の被害の状況や想いを知って、防災や減災というテーマに関心を持つようになったんです。ゼミ生は10人くらいいて、僕だけじゃなく、みんな関心が高かった。インタビューをしにいこう、などといった自発的な動きが次々に生まれていましたね。単位取得のためではなくて、やりがいのありそうなテーマに着目して、同じ方向に向かってみんなで走っていたように思います。

ラジオカーの活動は、2010年の夏休みから本格的にスタート。10月におこなわれた学園祭では、実際にラジオ番組を放送したのだとか。台本づくりから録音、ミキシング、BGMのつなぎ方など番組制作に必要な技術を事前にプロから教わるなど、一連の実験の結果、「一般人でも運用できるだろう」という結論に至ったといいます。
学内広報紙の編集長を務めていたので、学園祭では現場を走り回って取材などをしなければなりませんでした。だから、当日は参加することができないので、僕は事前の取材や録音などを担当したんです。結果は、成功。その過程で、携帯電話を1週間使わない「携帯電話が通じなかったらどうなるか」という実験をしたり、備蓄食料をテーマに、スーパーで缶詰などを買い込んで、どういう組み合わせがおいしいかなどを研究しました。災害が起こった直後は命をつなぐための食料が必要ですが、その先の生活を考えることも重要なんです。生き延びて生活していくうちに、自然とよりよく暮らしたいと願うようになりますから。ひと段落したころに起こる不便なことや、生まれる課題をどう解消していくかがテーマになっていきました。

その後、さまざまな実験をおこないながら、体感的に防災について学んでいった時井さんたちゼミ生は、これまでの経験をいかすことができそうな、独立行政法人 防災科学技術研究所主催の「防災ラジオドラマコンテスト」に挑戦することに。地域で起こりうる災害と防災をテーマに、そこで生じる問題を解決するまでをラジオドラマに仕立てる、という課題に取り組みました。
そのコンテストが、なんと第1回目だったんです。これは僕たちのためにあるんじゃないか!と思ったほどでした。締切まで1ヵ月しかなかったので、授業の時間以外にも集まって取り組みましたね。チーム名は、FM Free。ラジオカーの運用を経験した僕たちが大人になった10年後に大きな震災が発生して、学生時代に学んだ知識や経験をもとに復興にたずさわっていくというストーリー。結果は2位の優秀賞で、「最優秀賞じゃなかった!」と、負けん気の強い仲間たちと本気で悔しがりました。あんなに本気で取り組んだ経験は、それまでなかったんじゃないかと思います。

DSC_7206「防災ラジオドラマコンテスト」で優秀賞に輝いた、FM Free


教育の枠を飛び越えた、自発的な支援活動

その翌年、あの東日本大震災が起こります。あまりにも甚大で、広範囲にわたる被害を目の当たりにして言葉を失っていた時井さんでしたが、すぐに大学の有志による募金活動に参加したそうです。
まさか、防災に関わるプロジェクトやラジオドラマ制作に関わった翌年にあんなに大きな災害が起こるなんて、思ってもいませんでした。僕たちが学んできたことが、現実になった瞬間だったんです。何かしなくちゃ、と思うのにどうすればいいのかがわからなかった。被災地へ行くのは危険だからと止められるし、大学を休んだら単位の取得をどうするんだ…という現実的な問題にもしばられていて。自分にできることはないのかと悶々としながらも、とにかくやれることをやろうと、募金活動を続けていました。

それぞれがどんな復興支援活動をしていたのか、ゼミでは話題にのぼりませんでした。だれもが自主的に動いていたから、授業として取り組む必要がなかったのでしょうね。先生も、教育という型にはめてしまいたくなかったんじゃないかと思います。学生同士、お互いに何をしているかは言わなかったけど、それぞれができることを必死でやっていたんだろうなと。そういう雰囲気は、お互いに感じとっていました。

東日本大震災から2ヵ月後、ラジオ関西の協力のもと、時井さんの先輩たちが臨時災害FM局を立ち上げるために岩手県南三陸町をめざします。
南三陸町は当時、陸の孤島状態。情報が遮断されていたため、情報発信できる媒体が必要だということになって、要請があったんです。本当は僕も行きたかったのですが、学内広報紙の編集長の引き継ぎをおこなう時期と重なっていて…。悔しがる僕に「俺たちが現地の状況を見て、ちゃんと伝えるから、時井は学校に残ってしっかり記事にまとめてくれ」と言い残して、先輩たち3人は出発しました。

臨時災害FM局が被災地で活動をおこなったのは、9日間。ラジオに関しては素人である被災地の方々に、これまで学んできたミキシングや取材のノウハウなどを伝えたそうです。
3人がクタクタの状態で帰ってきたところを、空港でつかまえて、その日の深夜まで被災地の状況を聞き出しました。大きい船が内陸部に押し上げられている様子や地面がむきだしになった写真を見て、あらためて、テレビで伝えられている以上の大災害なのだと感じましたね。この時も「自分にできることはないのか…」と考え続けていました。

DSC_7172岩手県南三陸町で臨時災害FM局を立ち上げた、先輩たちの姿を伝える学内広報紙


神戸ともしびプロジェクト、始動

2011年7月、学内広報紙の引き継ぎが終了。僕にもようやく何かできる、と時井さんがはじめたのが、被災地に街灯をおくる「神戸ともしびプロジェクト」でした。けれど、思いつきだけで行動して被災地に本当に必要なものが見えなくなったり、自己満足になったりしてはいけないと考えて、神戸市長田区の被災経験のある方に、あらためてアドバイスをもらいに行くことにしたそうです。
津波であらゆるものが流されてしまった被災地は、夜になると真っ暗で…。神戸市長田区の方々から「震災後、まちが暗かったせいか、みんな、くたびれたような暗い表情をしていた」という話を聞いて、自分にできることが見えてきたんです。実行にあたっては現地の方の負担にならないよう、ランニングコストがかからないものがいいという助言もいただきました。配線工事のいらない太陽光発電の街灯を選び、海の風でさびないように特殊なメッキ加工をほどこして、この先10年は使えるものにしようと工夫しました。阪神・淡路大震災を経験した方々の苦労や、当時の想いがいきたんです。

そして、神戸・新長田の大正筋商店街の協力による共同プロジェクト「神戸ともしびプロジェクト」が始動。募金活動にも、さらに力が入るようになります。
目的がわからない募金だと、先々まで協力してくれる人も減ってしまいます。明解な目的を持てたことがモチベーションアップにつながりました。特に被害の大きかったエリアのひとつである新長田で募金活動をおこなうことが多く、被災された方もたくさんおられて。中には、涙ながらに当時の経験を語ってくれる方もいらっしゃいました。この深い想いも、募金と共に伝えていかなければいけないなぁと、自然と気持ちが引き締まりましたね。

2011年には、12本の街灯を被災地へ。しかし、翌年からは募金が集まりにくくなったため、仕組みを考え直す必要があった、と時井さんは言葉を続けます。
宮城県・気仙沼市にある復興商店街「南町紫市場」と共同で商品を開発し、売上げの一部を寄付するシステムをつくろうと考えました。かぼちゃをシンボルマークに掲げている商店街だったので、くつのまちである神戸市長田区の革加工技術を使って、キーホルダーを制作したんです。「神戸ともしびプロジェクト」で気仙沼から海産物や加工品を仕入れて、大正筋商店街で販売したり、購入代金の一部を「神戸ともしびプロジェクト」に寄付してもらう仕組みをつくったり、さまざまな工夫をこらしました。

DSC_7194気仙沼の復興商店街「南町紫市場」と、神戸市長田区の革職人とのコラボから生まれたキーホルダー

2012年、大学生活最後の学園祭では、南三陸町の水だこと長田のB級グルメの代表、そばめしを融合した「たこそばめし」を販売。大きくて歯ごたえのある水だこ入りのそばめしは、その年の学園祭で最高の利益をあげたのだそうです。
おいしいものを食べたり、現地のものに触れて、よさをわかってもらったりしたうえで募金をしていただければいいなと思ったんです。「たこそばめし」は後輩が継承して、販売を続けてくれています。

DSC_7199商品開発からかかわった「たこそばめし」と、イベント販売で好評だった「かまぼこコロッケ」


継続的に支援していきたい、と起業を決意

歩みをとめることなく活動してきた時井さんにも、卒業後の進路を考える時期が訪れます。起業を決めたのは、卒業目前の2012年12月。急いで起業のための準備を進め、なんと卒業式の4日前に会社を立ち上げてしまいます。
震災復興支援や、これまでに学んできた防災の知識をいかせる仕事ができたら、活動を続けていけるなと思ったんです。そのために自分がどうするべきかを必死で考えた結果が、ボランティアではなく、経済面から被災地を支えるための会社を設立することでした。「今しかない!」と思い、会社を設立してから卒業しようと目標を立てたんです。

学生時代から、神戸市長田区の産業の衰退ぶりが気になっていたという時井さんは、職人さんに協力してもらい、革製品をつくる仕事からはじめることに。生まれたばかりの会社だったにもかかわらず、想いを伝えると協力してくださる方がたくさんいて、助けてもらってばかりいる気がする、と時井さんは語ります。
商品第1号は、長田の靴職人さんと一緒につくった名刺入れ。1mm単位で仕上げていく加工技術を取り入れて、40枚の名刺が入る大容量サイズを実現しました。名刺を入れすぎて間口がぱかっと広がらないよう、機能面でも妥協しませんでしたね。その商品が完成したころ、地域産業の活性化にたずさわりたいという想いが強くなりました。それが復興支援につながったら、おもしろいだろうなと思ったんです。ようやく「これだ!」という道が見えてきました。実際にアクションを起こして、課題を解決する方法を走りながら考えて、次につなげていくのが僕のやり方なんですよね。

DSC_7218レヴァークの商品第1号となった、こだわりの名刺入れと小銭入れ


被災地の、地元産の素材を使った商品展開

2014年に入ってすぐ、宮城県・気仙沼市の方から声がかかります。気仙沼産のマルベリー(桑の実)を使った商品展開をおこなうにあたって「アドバイスがほしい」というものでした。けれど、助言ができるほどの知識はないし、自分はそんな立場ではない、と時井さんは判断したそうです。
だから、共同ビジネスをはじめることにしました。商品企画を共同でおこない、製造は気仙沼で、販売は僕が担当するように役割分担をしたんです。パッケージデザインは現在、神戸芸術工科大学の学生さんたちと共に進めているところです。被災地と関わることで、僕とほとんど変わらない世代の人たちが災害や復興支援に興味を持つきっかけになれば、いいですよね。

気仙沼は、サメの漁獲量が日本一。そこで注目したのが、サメの本革です。海の生物なので、とても丈夫で撥水性も高いんです。これをうまくいかして、ブランドに育てていきたいなぁと。日本各地に存在している職人さんとコラボレーションすれば、全国に復興の種をまけるんじゃないかと思うんですよね。現在は、染色技術を持つ工房さんと話を進めているところです。

DSC_7223独特の風合いが魅力のサメ革、これからの展開が期待される


数十年後、胸を張っていられる自分でいたい

常にアクションを起こしながら考えて、走り続けている時井さん。最後に、これからの展望をお聞きしました。
被災地支援のために何をすべきか、考えをめぐらせて新しい方法を導き出していくことが、今の僕の使命です。被災地を支援する力になりたいという想いから会社をはじめましたが、ただの願望や自己満足で終わることなく、何十年か経ったときに心の底から「復興支援の役に立てた」と胸を張って言える自分でありたい。そのためにも、僕らの活動そのものや共同開発した商品をどんどん世の中に送り出していきたいし、国内だけでなく世界に広げていきたい。だから、これからも全力で走り続けていく覚悟です。



(写真/片岡杏子 取材・文/二階堂薫、山森彩)

時井勇樹

株式会社レヴァーク代表取締役、神戸ともしびプロジェクト実行副委員長。学生時代に防災について学んだことや東日本大震災の復興支援活動がきっかけとなり、継続的な支援を目的として2013年に起業。ビジネスとして経済面から復興支援をしたいという想いを持ち、被災地の素材をいかした商品開発やブランド化を進めている。

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