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アンケート結果

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Q.震災後のあなたを勇気づけてくれたことは何ですか?

淡々と米づくりをしている祖父のすがた。その自分で生きていけるたくましさ。

三木市
茅葺き職人 男性

昔、5歳の子供を病気で亡くした私のおばあちゃんが、電話で泣きながら言ってくれた。
「私が子供を亡くした時に 自分の母親に『この子が死ぬぐらいだったら旦那さんが死ねばよかった』と言ったら、お母さんが『そんなことを言うもんじゃない』と怒ったの。でも、子供を亡くすということは、そんな風に思ってしまうぐらい悲しい事。そして、他の誰の言葉でも元気にはならない、自分自身で生きようと思わないと生きてこうと思えないいんだよ」
亡くなった人を想い続けるということは後ろ向きだと思っていたけれど、おばあちゃんの話を聞いていると亡くなった人を想い続けることは、前に進むことなんだということを知った。

山口県岩国市
専業主婦 女性

家を建てるか躊躇していた父に、80過ぎの祖母が、「住むとこないねやったら、たてなしゃあないやろ。」と 一喝したのを見て、戦争経験者は精神的に強いなあと思い、勇気づけられた。

東灘区
会社員 女性

仕事から帰宅後、子どもの寝顔を見ると挫けないで生きていかなければと思いました。

垂水区
会社員 男性

生まれたばかりの娘の笑顔。育児に専念することで、震災を直視するのを避けていたようにも思います。

中央区
フリーター 女性

第二子の出産予定日がちょうど1か月後だったこと。

大阪府 茨木市
サービス業 女性

当時小学生だった私を、両親は守ってくれました。震災後一ヶ月は学校にも行けず、疎開先でも余震に怯えてひたすら寝ていました。転校を強制することなく私を守ってくれたのが,両親や疎開先の祖父でした。

灘区
小学生 男性

当時76歳の父が、遠くから何時間もかけて、お弁当を持ってきてくれました。びっくりしたのと同時に嬉しくて、涙が出ました。震災後10日ぐらい経っていたと思います。今父は96歳になりましたが、元気にしています。17日が来るたび、「あの時はよく来てくれたね。嬉しかったよ」と毎年のように父と話しています。

垂水区
主婦 女性

本震にも度重なる余震にも、これから先どうなるんやろうって絶望感で怯えていた私を父が抱きしめてくれ「死ぬ時は一緒や」と言うてくれた時。地震直後でテレビでは燃える長田や倒壊した高速道路、亡くなられた方々の名前が永遠と流され続け、震災を乗り越えるんや!死んでたまるか!生き抜くんや!なんて前向きな気持ちにはなれなかった頃のことです。

須磨区
中学生 女性

防災指令発令で病院に駆けつけて以降、しばらく現場から帰れず、ただひたすら勤務していた。感情がまひしていたのか、なにも感じられなかった。ある日、実家に帰れた日に母が作ってくれた温かいお蕎麦を食して、初めて涙が溢れた。生きていることのありがたさを噛み締めた。

中央区
看護師 兼 臨床研究コーディネーター 女性

余震が怖くて寝られなかったことを思い出します。しかし、いつも寝るまで母がそばに居てくれました。

西区
専業主婦 女性

余震があって家が今度こそ崩れるんじゃないかと怖がっている時に、大丈夫と励ましてくれた家族。

垂水区
プログラマ 女性

家族や友達がいるだけで、勇気がでた。はじめは近所の人とかも助けてくれたけど、2〜3日も経つと自分たちのことで必死で、助けてくれないのがわかり、結局最後は自分たち家族で乗り越えないといけないのだと腹がすわり、がんばれた。

東灘区
会社員 女性

当初からずっと自衛隊の方々には感謝です。被災者を勇気づけ危険な建物に入って救助にいき、仏様には深々と黙とうをしていただきました。地獄のなかの救世主です。
数あるエピソードの一つですが近所の仲のいいおばちゃんの家がくずれ最初はみんなで車のジャッキアップをつかい柱など上げていましたが半日でも助けられず、体の一部が見えているのになかなかどうすることもできずにイライラしていました。次の日に自衛隊の方々がやってこられて2時間とかからずにおばちゃんを瓦礫のなかから出していただきました。
仏さまになっていましたが、亡くなっていたのはみんなわかっていたので、死を悲しむ気持ちよりあの瓦礫のなかにずっといる状態からおばちゃんを外にだしていただいた感謝の気持ちのほうが強かったです。

東灘区
自営業 男性

避難場所が長田区役所だったこともあり、近くの長田警察署前の道路には、全国の消防車が集結していました。各県から助けに来てくださっていることに感動し、深く感謝し、涙がこみあげてきたのを覚えています。未だにあの光景は忘れられません。

長田区
主婦 女性

パトカーや給水車など、都道府県名が入った車両を見かけた時、全国が気にかけてくれていると感じられた時はとても励まされていました。

須磨区
会社員 女性

無念なことに、震災で傾いた自分の生まれ育った自宅を十分な準備もできず解体せざるを得なくなったが、自衛隊の方々に、お清めも含め手厚く丁寧に解体していただいたことに、感謝感謝でした。

東灘区
定年退職 男性

役所などに行けば、あらゆる都道府県の名称を書いた腕章をつけて、たくさんの人が応援に来てくれていたこと。自衛隊が基地をはって、懸命に救助に当たってくれたこと。救援物資を運ぶトラックの前に張ってあった横断幕の言葉 「頑張れ!近畿!」

長田区
無職 女性

自衛隊の人が熱を出している私の、体調を気にかけてくれた。

東灘区
主婦 女性

震災後から東灘区深江浜町の勤務先に数時間かけて通勤し、その際に実家でタンクに水道水を数本一杯にして通っていた。3月になって初めて自衛隊の給水があり、「よくここまで頑張ってこられましたね」と言われた時に涙が出た。社員や知り合いを失い、必死で自分の気持ちを抑えながら仕事をしていたので、ふっと 緊張が切れた瞬間だった。

明石市
会社員 男性

自宅や家族親戚知人に大きな被害はなかったが、当時、幼稚園に通えなくなった。思い返すと、幼稚園に行って帰ってきたら誰も居ないというような状況になりはしないかと子供ながら不安だったのだろうと思われる。
そんな時に、近所で震災で心に傷を負った子どもたちのためのカウンセリングが開かれ、そこに出向いた。カウンセラーのおじさん(と記憶している)に言われた内容を逐語的に覚えているわけではないが、不安な気持ちはわかると子供の話を真剣に聞いてくれたように思う。
その結果、卒園までほとんど幼稚園には行けなかったが、一度幼稚園に行くことができ、小学校入学はスムーズにできた。今の自分はあのカウンセリングがなければなかったと思う。

垂水区
公務員 男性

遠方から駆けつけてくれた学生ボランティア達と行動して行く中で、次第に自分を取り戻せて行けたことです。学生ボランティアは、神戸の地理には詳しくないので、私は道案内を買って出ていました。彼らの献身的な姿勢に、いつしか一緒に行動していた私です。そして自宅や実家についても、自分で片付けをしなければならないのに、片付ける元気と気力がない中、当然のごとくに自宅の片付けを肩代わりしてくれた彼らに、今でも感謝の思いを感じています。

灘区
会社員 男性

銀行勤めだったので、義援金等の振込処理のために出社しなくてはならず、交通機関が途中までしか動いていなかったので、片道6時間かけて歩いて出勤。寒さと疲労で疲れ切って歩いているときに配給のパンや飲み物をいただいたり、お風呂屋さんがボランティアで無料で開放しており、何日かぶりに入れたりと、人の優しさに触れたとき。

垂水区
介護職 女性

故郷の知らない人が、神戸に電話の復旧工事に応援で行っていると聞かされ、知らない人とはいえ、故郷の人が遠方から瓦礫の中に来てくれているのに、自分たちが頑張らずに、誰が頑張るのかと何100倍のパワーが出た。

中央区
自営 男性

空き地になった場所がコスモス畑になったこと。アメリカから、くまのぬいぐるみがひとりひとりに贈られてきて、英語の手紙も入っていたこと。

芦屋市
専業主婦 女性

ボランティアの人たちの励ましには、常に勇気を貰った。

灘区
会社員 男性

勤務先である小学校に著名人数名から楽器などの救援物資をいただきました。見知らぬ人も応援してくれていることが嬉しかったです。

東灘区
公務員 女性

ボランティアの方が心の支えでした

中央区
会社員 男性

各地方、国からの救援物資や、援助してくれるという気持ちがとても嬉しかった。皆が支えてくれていると実感できた。

北区
看護師 女性

ボランティアの人たちと一緒に炊き出しなど手伝いしたりして積極的になれたこと。小学校の運動場にテントをはり卒業式をしたこと。

灘区
パート 女性

世界中の人々からの励ましの言葉や支援物資、自衛隊や各自治体、ボランティアグループの方からの復興支援や温かい炊き出し。

東灘区
病院職員 女性

当時母も私も風邪をひいていて、家には食べ物どころか水さえもなかったんですが、近所のスーパーに食べ物を買わせてくれとお願いすると、親切にお店を開けてくれて、本当に助かりました。

垂水区
事務職 女性

大阪の喫茶店で震災の話になり、大変だからとお茶代を取ってくれなかった。人の情けが身に染みた。

西宮市
パート 女性

近所の店舗や施設が、避難者のために様々な支援をしてくれた。うどん屋はうどん券を配布し、店舗でうどんを無料で提供してくれた。スパ施設は無料で入浴施設を開放してくれた。

宝塚市
団体職員 男性

ある喫茶店のそばを通り何か買うものはないかと覗き込んでところ、チョコレートをひと箱、無料でいただいた。「お互い頑張りましょう」と言い合った言葉に勇気づけられました。

東灘区
男性

風景だけでただごとではないと感じ、死者も確実に目の前にいるとわかる状況の中にいると、言葉や歌もなくふつふつと何とかしなくてはと体が勝手に感情とともに動いていた。ふだん会話もしない、少し無愛想かと思える近所の弁当屋の店員さんに、地震後、生存しているのがわかって笑顔で対応してくれたときはうれしかった。

東灘区
会社員 男性

震災前の8月に転勤してきたこともあり、土地勘がまったくない私でした。しかし、震災直後から居住地区の皆さんが「こんな時だからお互いに頼ろう」と言ってくださったこと。風邪をひいた時、まったくお会いしたことがないご近所の方がおかゆを届けてくださったこと。震災直後の混乱時、自宅に一時的にお子さんを預かっていたのですがそのお子さんが結婚される時に招いてくださったこと。
本当に助けられ、励まされ、勇気付けられました。

兵庫区
会社員 女性

新長田の近くだったので、TVで放映された火災の映像に知人たちが心配して差し入れをくれた。生死が分からなかったので心配したようです。隣近所の人とよく話をするようになったのもある。お互いがんばろう!と。家族4人でいつも一緒に行動し、再建についても前向きに取り組めた。近所の人たちも同じ体験者で分かりあえることで親身になって話ができたと思う。

長田区
主婦 女性

日ごろ付き合いのない近所の方が、マンションの部屋に呼んでくれて、姉妹だけで暮らしていた私たちの不安を軽減してくれたこと。

西宮市
主婦 女性

水道が早めに復旧した面識のないご近所の方が、水をくださったこと。コープの配達担当者が子供のおむつをくださったこと。

灘区
団体職員 男性

倒壊したアパートの前に立っていたら、見知らない人が「大変だね」と言ってパンを差し出してくれたことがすごくうれしかった。若い男性が、倒壊した家に埋めれている人がいないか、探し回ってしる姿に日本人はいいなと思った。

東灘区
事務 男性

避難所にいた時、阪急沿線の北に住んでいる方が、「家は電気もガスも通っているし、暖は取れるので是非来てください」と仰り、10人程泊めていただいた。暖かいラーメンやおにぎりを出してくださった。見ず知らずの人間を家に招いてくださり、本当に親切な方がいるものだと感動した。

東灘区
会社員 男性

母が家に埋まったままでした。見知らぬ人達が救い出そうとしてくれたり、瓦礫から出てきた母の遺体を西市民病院まで通りすがりの人が「車持ってる奴おらんか」と叫んで運んでくれたことです。こんなに知らない人達が一生懸命してくれているのだから、生きながらえた私が頑張らないと、とおもいました。

兵庫区
コープこうべ職員 女性

岡村孝子『私の中の微風』の歌詞
「沈んだ夕陽を追うように あなたはアクセルを踏んだ かなたに広がる黄昏が 二人を吸いこんでく 負けないで 強くいて 私はいつもそばにいる 誰でもが今日を生きている 悲しいほどひたむきに それぞれの胸の奥の熱い夢を抱きしめて」
1日半居た小学校から友人の家、家内の里の伊丹に一時間借り、しばらく休んでのち、職場まで往復70キロを自転車でペダルを踏んで毎日通いました。雪の日も雨の日も朝5時頃から出勤し、夕陽を背に夜遅くペダルを踏んで帰りました。自宅は全壊で家族4人はバラバラになり自宅再建のめどは一向に立たない。それどころか同居していた母を長男が見ない。よりどころ、励ましてくれるものは何も誰もいなかった。歌の存在を知り、涙しながら聴いた。とりあえずは、あるがままに今できることの最善を!家族が安心して住める自宅を再建する夢に向かって!!
この歌を聴きながら心は熱く燃えていました。

灘区
無職 男性

中島みゆき『時代』
「今はこんなに 悲しくて 涙も枯れはてて もう二度とは笑顔になれそうもないけど そんな時代もあったねと いつか話せる日が来るわ あんな時代もあったねときっと笑って話せるわ だから今日はくよくよしないで 今日の風に吹かれましょう めぐる めぐる 時代はめぐる 別れと出会いをくり返し 今は倒れた旅人たちも 生まれ変わって 歩き出すよ」
震災後は、自分の仕事が終わって仮眠をとるときもずっとラジオで情報を聞いていましたが、深夜ラジオからは音楽が消え、被災者の安否情報が延々と続く状況でした。それが、どれくらい経ってからでしょうか、ラジオから聞こえるギターのアルペジオの音にふと深夜に目が覚めて耳を澄ますと、その次に女性ヴォーカルで中島みゆきさんの「時代」でした。よく聞いて知っていたはずの曲がまったく新しい意味、価値を持って僕の前に現れました。涙があふれてきました。あふれた涙がほほを伝わったとき、涙ってこんなに熱いものなのかと思いました。

灘区
地方公務員 男性

『しあわせ運べるように』
震災後、時も経たないうちに小学生たちが歌っていたのが、心に響きました。

垂水区
非常勤特別職公務員 男性

『しあわせ運べるように』
自然に涙があふれて心から泣くことができた。これを教訓に音楽療法活動をスタートし、今現在も継続中。

ポートアイランド
ボランティア 女性

『しあわせ運べるように』を歌ったこと。117の度に歌って、辛かったことや大変だった頃を思い出したけど、歌にのせることで勇気や希望になった。

西区
会社員 女性

永井真理子『私の中の勇気』
ずっと、頭の中で歌っていた。

長田区
会社員 男性

SMAP『がんばりましょう』
木村拓也さんの「私たちも早く神戸が復興できることを応援しています!」という言葉には励まされました。

北区
鉄道関係 男性

坂本九『上をむいて歩こう』

垂水区
美容家 女性

岡本真夜 『TOMORROW』

東灘区
会社員 女性

サイモン&ガーファンクル『明日にかける橋』
当日の深夜、ラジオから流れてきた時、涙が止まりませんでした。その後、全国のライフラインの会社の方々が、水道、電気、ガスの復旧に来ていただいたことは忘れられません。

灘区
会社員 女性

ソウルフラワーユニオン『満月の夕』
今でも聴いています。

北区
会社員 女性

THE BOOM『風になりたい』
当時を思い出させる歌詞。

須磨区
派遣社員 女性

吹奏楽曲『おほなゐ』
第三楽章は胸が熱くなります。

西区
パート 女性

震災後しばらく音楽や娯楽を楽しむ気分になれなかったけど、数か月後にようやく復帰した商店街で何となく買ったCD(洋楽のCDでした)を聴いて初めて音楽を聴いたときのような衝撃的な感動を受けた。

灘区
非営利団体職員 男性

中学を卒業してから数年くらいだったと思います。サンテレビで放送された声優さん達のライブ映像の中で、林原めぐみさんが震災当時の話をされていたのを見て、すごく胸が熱くなりました。
「本当はニュースを放送しなくてはいけない状況なのに、自分の番組を放送した。賛否両論はあったけど、自分のラジオを放送した事で救われた人がいる」。
震災以降、何度か引っ越しをしまして、今住んでいる家で見ました。父が偶然見つけて、途中から録画してくれていたものでしたが、この話は、私の中に残っていた暗い記憶を溶かしてくれました。それ以来、どんなに状況が暗くても小さな光がどこかにあるんだと、思えるようになりました。

灘区
無職 女性

涌島克己さんの画集『友だちがいて よかった』の「見えへんとこにも おりまっせ 友だちがいてよかった。」と言う言葉です。
20年前、ほんまに困った時に スッと救いの手を差し伸べてくれた多くの友人達に支えられ、今があります。
3年前、東日本大震災の津波で被災した東松島の友人に、この言葉を添えて救援物資を運び贈りました。私と同じく普段は見えない仲間の繋がりを喜んでくれています。人は一人で生きていけない、これからも大切にしたい思いです。

東灘区
自営業 男性

自宅の戸に紙を貼って連絡事項を訪ねてきてくださった方が書けるようにしていました。紙が書き込みでいっぱいになったので捨てようとしたら、すみに「通りすがりの者ですが、がんばってください」と書いてありました。何だかとてもうれしくて取ってあります。「がんばって!」と言われることに不快感を覚える人も多く居られましたが、私はがんばって=負けないで、だと思って気にかけてくださる方が居られることに励まされました。

中央区
パート 女性

避難所で年配の方から「ここまで進んできた街がこれで10歩くらい下がってしもた。この10歩を助走にして、もっと前に進ませるんは君らの世代なんやで。がんばろな。」と言われたこと。

灘区
自由業 男性

市民から「ありがとう」「がんばって」と言われたこと。

須磨区
消防職員 男性

避難者の中に戦争を体験された高齢の方が「戦争はいつ終わるのか分からないけれど、この災害は今から復興だけ」という話に勇気づけられた。

灘区
経営コンサルタント 男性

テレビのコマーシャルで聞いた「人が人を救う」という言葉に勇気づけられた。

三田市
主婦 女性

戦災を体験したことのあるおばさんが「戦災はすべての人が被災し、何も無かったが震災は神戸だけなので時間はかかったが、物資が豊富に来たからまだましだ」と元気に動いているのに励まされた。

兵庫区
専業主婦 女性

「無事に生きていてよかった」

灘区
女性

「お店が助かってよかったね。命があれば、何でもできる。」

兵庫区
主婦 女性

とにかく子どもたちに勇気や元気をもらいました。家族を失っても、家を失っても、クラスメートを失っても、純粋に生きていこうとする子どもたちの姿に何度救われたか…。
2月に入って自分たちの学校は避難所になっていたから、隣の学校の校舎を借りて授業が始まった。「給食」として冷たいパンとソーセージ1本、チーズひとかけらが配られた。寒さで凍える日に。でも子どもたちは底抜けの明るい笑顔で「先生おいしいね!」「やっぱりみんなで食べるとおいしいなあ」と言ってくれた。誰一人文句を言わず。涙が出ました。
その後、3月の卒業式も自分の学校ではできず、隣の学校を借りて行ったが、「母校で卒業式ができなかったのは残念だけど、みんなで卒業式ができただけでも良かった。先生ありがとう。」と言ってくれた子どもたち。

垂水区
小学校教師 女性

高校教師をしていたので、生徒がみんな無事だったこと。

三木市
無職 男性

市内に住む高校の担任の先生が方自宅まで安否を確認しに来てくれた。

須磨区
会社員 主婦 女性

震災発生時、国家試験3ヶ月前だったが、大学と教授の方々が直前の1ヶ月間、日曜日も1日も休まずに補講・講習をしてくれたおかげで、合格することが出来た。本当に感謝している。

須磨区
会社員 女性

昨年、小2のわが子の別のクラスの新任の先生が、ご自身の震災体験を語ってくださいました。当時小2で、弟を二人、お母様も亡くしたと。当時励ましてくれた先生を目指して教師になったことなどを聞き、同じ震災を経験した若者が、こうして立派に苦を乗り越えている現実にめぐり合えて自分自身も、この約20年をがんばって生き抜いてきたことの達成感を感じることができました。

兵庫区
主婦 女性

心に残った言葉は、私が母を亡くしたことを、通っていた英会話のジョン先生が、「悲しいかもしれないけど、新しいドアがあなたを待ってくれている。そして、ほら、外を見てごらん、また桜が咲いたよ…」もう涙が止まりませんでした。何気ない言葉だけに余計と涙でした。

東灘区
主婦 女性

勤務先が大阪北生協で、組合員さんから肌着、水、冷凍食品などいろいろな物や義援金をいただいたこと

西宮市
地域担当 男性

家屋倒壊で子ども、家内、親を同時に亡くし、わたしだけが生き残り、家族の捜索・棺桶を探す・死亡診断書・ドライアイスを探す・葬儀屋を探す・火葬場への移動、後始末(区役所・銀行等の緒手続き)、すべて一人でしてきた。私自身も、胸を圧迫されて圧死寸前で肋骨を何本か骨折していたが、診て貰うところも分からず、長い間彷徨った。悲惨の状態であった中、自分の勤める会社(大阪市)で、亡くなった家族の葬儀を社長を筆頭に社員皆様に執り行って戴いたこと。

須磨区
会社員 男性

私は大丸の中の喫茶店の店長をしていました。震災で建物が傾き、私が勤務してた店は閉店となってしまいました。震災翌日に、自転車で店を見に行ったときの大丸の姿は、私の中の時計を止めました。その後、会社がそんな私に考慮してくれ、震災後オープン1号店の店長に任命してくれました。その店がオープンした時、初めて私の中の時計が動き出した気がしました。会社には今でも感謝しています。

東灘区
医療機関管理担当 女性

大阪の会社から同僚が、飲料水、カセットコンロ等を持参してくれたこと。自宅を我々家族に1泊提供してくれた。久し振りに風呂に入れ、熟睡することができたこと。

灘区
無職 男性

東京の取引先から、暖房のない社内は寒いだろうと、暖かいダウンを社員30人分送ってくれました。かじかむ手をさすりながら伝票を書いたものです。

北区
専業主婦 女性

当時小6で、小学校の体育館の入っている本館は全壊で入れず、運動場は避難者であふれかえっていたので、卒業式なんて出来るわけないと思っていましたが、卒業記念でログハウスをみんなで作り、避難者の皆さんと一緒に青空卒業式をしてもらった。

東灘区
主婦 女性

震高校の体育館が避難所になっており、卒業式が体育館でできなかった為野外スペースでおこないました。その際、避難所の皆様が卒業生に花を一輪ずつ手渡してくれ声を掛けていただいたのが印象に残っています。ご本人も辛い立場にあるのに私達に温かい言葉をかけていただいた時は「絶対に神戸を、日本を復興させてみせる!」と心に誓った思い出があります。

灘区
会社員 男性

家族の大切さ、被災者同士の助け合い、避難生活でも良いことはたくさんありました。当時子供だったせいか、お菓子の配給があると並んでなくても分けてくれたり、遊び道具を調達してくれたり… 全て知らない人からの優しさです。しかもボランティアの人ではなく、同じ被災者です。悲惨な体験と同時に、普段感じる事ができない人の優しさと命の尊さを実感しました。

東灘区
事務職 女性

避難所で毎晩一斗缶で火をおこして暖をとっていたんですが、その時知らない人との震災時の話を聞き、私も話しそれだけで落ち着く感覚がありました。毎晩、近況報告みたいになりコミュニケーションの場になりましたね。

兵庫区
無職 女性

避難所で支援物資のおにぎりを使って雑炊を作ったとき。避難所で暮らしていた小学生の子から「暖かくて、おいしい。ありがとう」と言われたとき。

明石市
会社員 男性

震災当日・翌日・翌々日は、避難所の小中学校で、独り暮らしだった私は、見ず知らずの人達に支えられました。避難所でお会いしたので、同じ地域にはお住まいだと思いますが、本当の隣近所ではなく、その後の行方は存じ上げません。
具体的には、被害が軽かった神戸市北区へ車で買い出しに行かれたようで、お買い上げになった弁当・パン類を、無償で分けて下さいました。続く余震や未鎮火火災で恐怖心一杯でした。私は眠ったら危ないと思い、眠るつもりはありませんでしたが、交代で起きて警戒していようと提案されて、おかげで仮眠することができました。
また震災数日後には、全国からボランティアの志願が殺到していると聞き、心の底から感謝し、頭が下がる思いでした。
これらの助けられた出来事が、私の存命に直結したとともに、おそらく勇気を与えてくれたのではないかと思えます。

中央区
会社員 女性

同じ神戸でも被害が少なかったのでおにぎりをつくったり、寄贈品整理に行ったが、「ありがとう」と言ってもらって嬉しかった。

北区
福祉施設職員 女性

インフラや店舗の復旧・業務再開のニュースが励みになりました。街灯が点くとか、平時にはごく当たり前のことでも復旧した時は安堵しましたし、前に進もうという気にもなりました。

東灘区
地方公務員 男性

町がどんどん新しくなっていくこと

猪名川町
教諭 男性

JRの復旧が早かったことに、日本人の底力を感じた

明石市
会社員 男性

バスや海路など色々なルートを使っていたが、少しずつバスの距離が短くなり電車区間が長くなるにつれ歩く距離も短くなり、待ち時間、移動時間が短縮されるのが非常にうれしかった。まさに復興していく事が身に感じられた。

明石市
会社員 男性

すぐ近くでは電気がついているのに、3日間電気がつかなかった我が家付近の電柱に登って、工事をしてくださった方々のおかげでやっと電気が灯りました。そ の瞬間下を取り囲んで眺めていた私やご近所の方々は思わず拍手をして皆さんに「ありがとう」を言いました。明かりが灯るということのありがたさをこの時ほ ど感じたことはありません。

長田区
主婦 女性

学校に勤務していたが北海道の学校から見舞いの段ボール箱が届き、中に入っていた物品もさることながらお手紙が入っていたこと。心が届いたと実感した。

明石市
男性

学校で避難している時、黒田小の方々が洗濯ボランティアをして下さっていた。綺麗に洗濯してくださった中にカードが入ってました。「辛いでしょうがいつか笑える日が来ますように」とありました。本当に嬉しかったです。
避難所で食料品を配ってた時に記者が取材に来られて、「笑ってはるんや」と言われた時には、被災者は笑ってないと思われてるんだ、とも知りました。泣いたり嘆いていても時間は過ぎる。どうせ生きるなら笑って生きようと思いました。

東灘区
会社員 女性

神戸新聞の復活が、一番心に残っています。我が家では、昔から神戸新聞をとっていました。そのため、当時小学生だった私は、震災後一時的に毎日新聞(だったと思います)が代替誌面として配られた時、初めて神戸新聞以外に「新聞」というものがあるということを知り、その誌面デザインや構成、イメージの違い(特にテレビ欄)に違和感と寂しさを覚えました。数か月ぶりに、「神戸新聞」の見慣れた誌面と文体・テレビ欄が復活したとき、祖父に向かって「おじいちゃーん!神戸新聞が帰ってきたー!!」と喜んで見せに行ったのを今でも覚えています。なんだか、ホッとしたような、無事に帰って来た人を出迎えたような、そんな気持ちになりました。

明石市
会社員 女性

1つは、神戸新聞が届いたことです。避難先で受け取ったのか、崩れた自宅で受け取ったのか、そのあたりは定かではないのですが、新聞が届いたことで、「この街はまだ死んでいない」と思えました。
もう1つは、他自治体から炊き出しに来て下さったこと、そして国内外から多くの募金をいただいたことです。特に遠方の自治体の炊き出しや、日本と比べて貧しい国からの募金は、とても嬉しかったです。たくさんの人に支えられているという実感が沸き、生きていく力となりました。

灘区
大学職員 女性

いつも寝る前に布団に入って聞いていたラジオ。余震が起こる度に「本震より強い余震はありません!」と何度も言ってくれたこと。安心と、地震に負けないぞ!と勇気づけられました。

垂水区
主婦 女性

kiss FM KOBE。毎日聞いてました。生活情報をたくさんもらいました。

長田区
女性

ラジオ関西の放送。ありとあらゆる情報を発信して頂きました。家族が垂水区に居ましたので、大変役にたちました。

垂水区
会社員(運送業)男性

最初はなんか、非日常に正直ワクワクした。住んでた家も半壊だったけどまだましだったし。でも、自分の育った街がグチャグチャになっている現状をこの目で見てから少しづつ気分が落ちてきた。そんな時に自分の家が全壊してた友人が訪ねてきた。「魚釣りに行こう。こんな時に新鮮な魚くってるやつおらんでー。」と。アホかと思ったけど笑った。しかもそいつはほとんど釣りなんかしたことない。それから元気でた。がんばろうって思った。

灘区
会社員 男性

須磨区の北のほうだったので被害も大きくなかったので、学校が再開して友達に会えたことが嬉しかった。子どもはそれだけで気がまぎれたと思います。

須磨区
小学生 女性

地震発生から二、三週間過ぎたころに父親の仕事の関係の知り合いのご厚意で大阪に避難することができました。まだ電車が最寄りの夙川駅の手前の西宮北口までしか動いておらず、大阪から電車を乗継ぎ、徒歩で高校の友だちが会いに来てくれました。

西宮市
自営業 男性

友達からの「できることがあればなんでも言ってくれ」との電話や手紙

灘区
会社役員 男性

疎遠になっていた、大学時代の友人が支援してくれた事です。

兵庫区
会社員 女性

近くよりも遠方の友人からの迅速な情報が大変ココロ強かったですね。

西区
臨床検査技師 男性

勇気ではなく感謝の気持ちがありました。多くの友人が遠方から駆けつけてくれていろいろ助けて頂きました。

東灘区
専門職 男性

関東方面の知人から救援物資と「やっとかかった」とのTEL等、安否確認を久しぶりの人からあったり、がうれしかった。

灘区
無職 女性

電車も動いていない時、遠くから水を運んできてくれて、抱きしめてくれた友人。

東灘区
主婦 女性

海外に住む友人から「カメラ」が届いた。震災の写真を記録しておくようにというメッセージだと思い、できる限り写した。

灘区
無職 女性

大阪に居る同級生が直ぐに大阪で同窓会を開いてくれ、みんなに体験をいっぱい聞いてもらい、普通に接してくれて返って慰められた。(後日、あんなに機関銃みたいにしゃべった貴女を見たのは初めてだったと言われた)

兵庫区
主婦 女性

恋人との再会。

長田区
会社役員 男性

当時の彼のお母様のお気遣いとお食事。彼のご両親に初めて会い、その時に関西に知る人も無かった私を、いきなり自宅に居候をさせて頂きました。水も無い、食材も無い中で、本当に美味しいお食事を頂きました。突然の居候を、あの時、強くお誘い下さった事、優しくして下さった事、今でも感謝に尽くせない想いです。

須磨区
主婦 女性

初めて見たルミナリエの温かい光と、それを仰ぎ見る高齢の夫婦の姿が忘れられない。

兵庫区
自由業 女性

忘れもしません。観光都市神戸市が初めての事業として被災者を勇気づけた“第1回ルミナリエ”でした。私は当時あの光のトンネルを涙しながら生まれ育った神戸の町に一日もはやい100万ドルの夜景が戻るのを祈り,歩いたのを先日のように思いだします。現在のルミナリエは、観光商売としか受け止められないのが残念です。

長田区
芦屋市上下水道部水道業務課職員 男性

私が住んでいた場所は被害が少なかったので、そこまで私自身が傷付いたわけではありませんが、ルミナリエの輝きには胸が熱くなるものがありますね。

南あわじ市(旧三原町)
小学生 女性

毎年恒例のルミナリエ。亡くなった同級生を思い出す。「しあわせ運べるように」で涙が出る。

灘区
高校生 女性

ルミナリエという催しが出来て、募金で翌年からも開催出来るときいて毎年家族で募金していた。年々開催が危ぶまれてると聞きながらも存続出来ているので、少しでも風化されず、忘れられずにいるんだなと思った。
転校前の友達が数人亡くなって、でも電車が使えず家にも行けず、手を合わせにも行けなかったけど、東遊園地に慰霊碑と犠牲者の名前を載せた空間ができ手を合わせる事が出来て嬉しかった。

明石市(直前までは東灘区)
主婦 女性

何年も何年も何年も経ってから ルミナリエに初めて足を運ぶことが出来ました。 その時に「ただ、暖かな灯りがあるだけで人はこんなに笑顔になるんだ。」と涙が出ました。

大阪府 堺市
店舗内装・建築 男性

オリックス・ブルーウェーブの優勝。南京町のパブリック・ビューイングで誰彼かまわず抱き合って喜んだのがとても思い出深い。

西区
パート 女性

震災前からブルーウェーブのファンだったこともあり、ブルーウェーブのリーグ優勝は大きな希望となりました。地震の被害の後片付けの合間を縫って、よく球場に行ったのを思い出します。

中央区
会社員 男性

プロ野球・オリックスの優勝。「がんばろうKOBE」の合言葉をユニホームの袖につけ、試合に臨んだ当時の仰木監督やイチロー選手などの姿を見て、勇気づけられました。

東灘区
会社員 男性

いろんなスポーツのトッププレーヤーが次々に来神して,子供たちと一緒に遊んでくれたこと。その姿を見守る保護者に笑顔が見られたこと。

東灘区
公務員 男性

地震が起きて命からがら外へ逃げ出した時に見た神戸は悲惨なものでした。世界が終わったように感じました。未来のことなんて一切考えられないという状態が続きました。
通常授業ではないものの、学校が再開して間もない頃、学校から帰る帰り道で全壊した家の敷地内に生えている梅の木に花が2輪咲いているのを見てとても暖かい気持ちになりました。

東灘区
主婦 女性

近隣住民の助け合いです。家の下敷きになったお年寄りを救い出したお隣の若者、井戸水を自由にお使いくださいと開放してくれた近所の天理教教会さん、「マニュアルなど役に立たんぞ、気づいたことをどしどし実行しよう」と社員を励ました勤務会社の大阪支社長、一人暮らしの芦屋のマンションのドアが開かなく外に出られなくなった姉を助けるため、横浜からオートバイで駆け付けた弟、そして全国からかけつけてくれたボランティアの皆さん、様々な場で様々な人々が知恵を出し合って助け合ったのでした。

芦屋市
年金生活者 男性

私は水道局に勤めています。西神中央から渋滞で全く動かない車を乗り捨て、北落合にある落合中区配水池にタンクへの給水と市民への給水作業に向かいました。市民と職員とで言い争いにもなりました。「もっと沢山入れてくれ」「今は飲用分しか入れることはできません」お互いが必死なので、大きな声になりました。「命があっただけで良かったやん」「下では何もかも焼けてしまってるんやで」と女性の方が間に入ってくれました。その晩、「あんたら何も食べてないやろ」とおにぎりと温かいお茶を差し入れてくれたご近所の方がおられました。忘れられないです。
給水活動や復旧作業に全国の水道事業体から応援部隊が来てくれました。2月中ごろになると、給水済区域も増えてきて徐々に応援部隊に撤収の打診をしたところ、一番遠方の札幌市のかたが「最後までお付き合いします」とおっしゃていただきました。結局、3月中旬までお願いすることになりました。撤収隊の方に挨拶をいただいた時、神戸市の職員のほとんどが拍手をしながら泣いていました。

三木市
公務員(神戸市水道局) 男性

震災後、交通手段が無く神戸に帰れず、名古屋に滞在したが、色んな方々の親切な言葉や温かい気遣いに触れて、元気付けられた。

兵庫区
無職 女性

罹災証明をとりにいったとき、当時は他府県から応援の職員がたくさん来られていて、その中に某自治体のユニフォームを着た方を発見。友人が同じ役所に勤めていたのでそのことを話したら、その友人と同じ部署の方だった。震災とは関係のないことだけど、そんな偶然がうれしかった。

東灘区
団体職員 女性

特になし。時間だけが最高の良薬。

長田区
学生 男性

不眠不休でライフラインの復旧に尽力していた現場の全ての人々。

豊中市
教員 男性

瓦礫が残るまちに、桜が満開に咲いたこと。

長田区
無職 男性

ホテルオークラの「ファイト」という電灯の文字に、泣きました。「おかえり阪急」という神戸新聞の記事。

西区
専業主婦 女性

震災後は暫く通勤で使う電車が途中までしか通ってなかった為途中から一時間近く歩いて通勤してました。その時に同じ状況の方々に出会い励ましあった。友達も会社もみんな被災したからお互いの声掛けが1番の励ましになったのでは…

長田区
パート 女性

誰も見てくれない、誰も褒めてくれない苦しい中でも、頑張っている自分を精一杯褒めてやれるのは自分。でも頑張っている人に気づいたら、自分は相手を心から褒めてあげよう!と倒壊しそうなビルの中から荷物を運び出しながら、客先責任者と運搬トラックの荷台の上でお互いを褒め合った。

西区
会社員 男性

当時小学校五年生だったのですが、避難先の学校でとても優しくしてくれたことがその後の励みになったのは間違いありません。

東灘区
システムエンジニア 男性

震災当時は小学校低学年で、両親のもとをはなれ、祖父母のもとに預けられた。小学校も一時転校した。わけもわからない状態でとにとにかく周りのいうことを 聞かざるを得ない状況だった。安全な場所での生活をさせてもらえたが、常に漠然とした不安や恐怖しかなく、転校先の小学校にもまともに登校できなかった。 そんな私を祖父母や転校先の小学校の先生、同級生はいつもそっと優しく見守ってくれた。何か励ましてもらえた、とかではなく、ただいつも変わらない態度で 接してくれたのがなによりもうれしかった。

東灘区
病院勤務 女性

一人暮らしのお爺さんと全くの他人一人暮らしのお婆さんが同じ自衛隊テントで生活し、テント村が解散するときに二人がこれからも一緒に支えあって生きていく覚悟をされ、みんなで結婚式をしたこと。

明石市
看護師 女性

同じ被災した人との会話。経験したものだけがわかる恐怖や不安、生活苦。話すことで救われました。

垂水区
無職 女性

卒業間近で、卒業式が出来るか心配だったけど、玄関ホールでできて、多くの人からお祝いしてもらえた。

灘区
主婦 女性

2月の頭にセスナ機が飛んで「小学校を再開します」と連絡が入ったこと。 そして、小学校の中庭で登校した友達と再会したこと。 全員でカラフルな絵の具を使ってステッカーに絵を描き、校内のあちこちに貼ったこと。 空き地になった場所がコスモス畑になったこと。 アメリカから、くまのぬいぐるみがひとりひとりに贈られてきて、英語の手紙も入っていたこと。

芦屋市
主婦 女性

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