保健師

世界に誇れる話

JP | EN

「まず耳を傾けることで、力になれれば」地域全体の健康のために問題を解決していく。保健師 福永尚美さん

0083

地図が役に立たない、変わり果てた神戸のまちなみ

地域保健の専門家、保健師として東灘区の保健所に福永さんが配属された1年目に、阪神・淡路大震災が発生しました。当時は、兵庫県明石市在住。あまり報道されませんでしたが、神戸市の西側に位置するこのエリアでも相当揺れて、家中のものが床に落ち、「大変なことが起こった…」と感じたといいます。

電車が止まり、東灘区の職場には出勤できず、震災が発生してから2日間は垂水区の保健所に出勤。3日目の1月19日、福永さんは車で東灘区に向かいました。
そこには、変わり果てた神戸のまちなみがありました。高速道路が倒れていて、パトカーに先導してもらいながら進み、ふだんなら1時間ほどで行ける距離を8~9時間かけて移動。ヘリコプターの爆音やサイレンが鳴り響く、ものものしい状況でした。到着して、上司や先輩がご遺体を拭いたり、棺(ひつぎ)をつくったりしたという話を聞き、私自身も棺に入れるドライアイスを紙に包み続ける作業をしたことはわすれられません。

当時、東灘区役所内にあった保健所はご遺体の安置所になっていました。震災が発生してからの2日間は、保健所と福祉事務所の職員がご遺体の応急処置をしたり、何百もの棺をつくり続けるなどしていたといいます。

震災発生から3日目にようやく、勤務先の東灘区役所に出勤することができたという福永さん。たくさんの医療関係者やボランティア団体がかけつけて医療班を結成、福永さんはその案内役を担っていました。
目印になる大きな建物が倒壊していて、土地勘がある人でも道に迷う状態だったんです。地図が役に立たなかったので、医療班の皆さんを避難所へご案内する係をしていました。


避難所の巡回や個別訪問で、安否と健康状態を確認

また、福永さんには東灘区にある兵庫県立御影高等学校に救護所を設置するという任務がありました。けれど、利用する予定にしていた保健室は被災したままの状態で、ガラスが飛び散り、ほこりまみれ…。
こんなところで診療ができるのか…と不安になりましたが、皆さんに協力していただいて、なんとか救護所を設けることができました。医療班が定着すれば、とにかく診療ができます。その後はせきを切ったように、たくさんの方々が診察を受けに来られました。

震災からおよそ3週間後には、寝たきりの方や結核で療養中の方、乳幼児がおられる家庭を訪問して、安否の確認に奔走。中には自宅が倒壊した方や家屋の1階部分が押しつぶされたために亡くなった、寝たきりの方もおられたといいます。1月の末ごろからはインフルエンザが流行する兆しが見られたため、避難所では手洗いやうがいを励行しました。水が出ないからと、トイレに行くのを我慢して膀胱炎になった方や、歯磨きができないため口の中で増殖した細菌が肺に入って引き起こす誤嚥性(ごえんせい)肺炎を発症した方も…。
眠っている時間帯に起きた災害だったので、着の身着のままで避難所へ避難した方が大勢おられました。慢性疾患をお持ちの方の常備薬、入れ歯など、ふだんはご自身で管理しているものがないという方も。哺乳びんや紙おむつ、生理用品なども不足していたので救援物資が届くたびに避難所を巡回して、必要な方にお配りしました。

0051


無我夢中、弱音をはいている場合ではなかった

保健所の職員自身も被災し、睡眠や食事もままならない中での活動。小さなお子さんを親御さんに預けて出勤している先輩方もいたそうです。福永さんも保健師として1年目、上司や先輩の指示を仰ぎながらの精一杯の日々だったそう。震災後の約1週間は仕事場の床に段ボールを敷き、毛布にくるまって泊まり込む毎日でした。
あの経験が、避難所で生活しておられる方々と「共感できる何か」につながったような気がします。困っている方のご要望をお聞きして、可能な範囲で、限られた資源でまかなっていくことしかできませんでしたが、火事場の馬鹿力のようなパワーが全体的に満ちていました。当時は私も若く、体力もありましたが、心身共に疲れが出ても、弱音を吐いている場合ではなかったんです。

福永さんはさらに、避難所のリーダー的な方々との連絡調整や「テント村」での健康確認を進めていきます。
担当していた地域では、公園にテントを張ってつくった「テント村」で避難生活を送る方もいました。体育館などの避難所には間仕切りがありませんが、テントではそれぞれの事情に合わせて最低限のプライバシーを確保できます。しかし、やはり屋外なので劣悪な環境でした。頻繁に健康確認をしたり、物資の調達状況を見て相談に伺ったりすることもありました。

非常時ですから、皆さんがつらい状況に身を置いておられます。「どうですか」と声をかけ、寄り添うように話をお聞きするよう、自然と心がけていました。お子さんを亡くされたお母さんのお話を聞くと、どんなにつらいだろうと胸が痛みました。できるだけ、毎日のようにお顔を見て、声をかけるようにしていました。


西神仮設住宅訪問指導
仮設住宅を訪問する保健師


仮設住宅や復興住宅に必要な、新しいコミュニティづくり

1月末からは、各地から駆け付けた個人や団体のボランティアの協力を得て、在宅者を巡回していく「ローラー作戦」がスタート。応援部隊を中心に、6日間で19,601世帯の家庭訪問を行いました。その後もさまざまな自治体や神戸市内の他区の保健師などの支援を受け、避難所から仮設住宅へ入居する方々の健康面の支援を継続しました。
仮設住宅や復興住宅は抽選で居住地が決まるため、なじみのない土地に移らなければならなかった方もおられます。ご高齢の方々を優先した入居が進む中、支え合ってきた地域の人たちと離れてしまう状態に。生活環境は改善されても、短期間で次々に生活拠点を変えざるを得なかったことや慣れない土地での生活は、精神的に大きな負担になったと思います。

福永さんたち保健師は仮設住宅を1軒ずつ訪問して、健康調査を続けました。支援が必要な方への見守り活動や、健康相談を継続的に行う体制で臨んだといいます。中には体調が悪化して外出しづらくなった方や、ふさぎ込んでしまった方も。福永さんは個別の対応を続けながら、精神疾患やアルコール依存症になってしまった方を精神科領域の医師や専門機関へつなぐなど、橋渡しの役も担っていました。
もともと暮らしていた地域の支援、人的なつながりがない状態だったので、新しい場所でのコミュニティづくりも同時に行われました。ふれあいセンター(集会所)や復興集会などのコミュニティが次々につくられ、さまざまな場所で保健師が直接、健康相談をするようになったんです。

「おうちから出られない方には、インターホンを押しながら「○○さん、お元気ですか?」と声をかけていきました。何気ないことですが、こういう活動を通して、少しずつ人間関係が生まれていくんですんですよね。「また来てくれたんやね」と徐々に緊張がほぐれていきました。


地域の情報を、ふだんから把握しておくこと

やがて、地域の医療機関が復旧し、東灘区では阪神・淡路大震災が発生してから約2カ月後の3月末、救護所が撤退することに。以後はよりこまめに地域を回り、「どこで治療が受けられるの?」というような細かい情報を集め、地域の方々にお知らせしていく役割を担うようになりました。非常時だけではなく、日頃から地域に根差した活動をしている福永さん。保健師として、災害発生時に備えて常に意識しているのはどんなことなのでしょう。
地域の病院や介護情報など、近隣の情報を日常的に把握するように努めています。今では神戸市災害時保健活動マニュアルが作成され、各地域での体制整備も進んでいますが、神戸市役所でも震災を知らない若手職員が増えてきました。少なくとも、このマニュアルを読んでおいてほしいし、「災害時、どう活動すればいいのか」を考えるきっかけがあるといいなと思います。


なじみのある人が近くにいると、心強い

(神戸市)仮設調査場面7.7
陸前高田市の仮設住宅を訪問し、健康調査を行う福永さん

2011年に発生した東日本大震災後、福永さんは陸前高田市へ。東北では、阪神・淡路大震災で得た経験から、地域性を考慮したコミュニティ単位での仮設住宅への入居が進んでいきました。
東日本大震災が起こった年の7月頭の5日間、主に避難所を訪問しました。津波で、たくさんの命が一瞬にして奪われた大災害。阪神・淡路大震災と同様にご家族を亡くし、生活の基盤を失った方が大勢いらっしゃいました。直接できることはないけれど、つらい気持ちに寄り添い、話をお聞きすることでなら、お力になれるかも…と思っていましたね。

私が担当していた仮設住宅では、ある程度近い地域で暮らしていた方々が生活されていました。「困ったときは、△棟の○○さんに相談してる」というようなお声を聞いて、なじみのある方が近くにいて、困ったときに相談できるのは心強いだろうなと安心したんです。


0097


日ごろから、災害時の支援体制をつくっておくこと

阪神・淡路大震災を経験した保健師として、災害発生時の対応方法をどのように考えておられるのでしょうか。
災害は、いつ起こるか分かりません。「災害が起こったときに、自分の所属部署がどのように動くのか」を日常的に把握しておくように意識しています。また、公務員として迅速に出動するためには、家族の協力が欠かせません。私を含めて、職員はふだんから、家庭内で災害時の対応策を相談しておくことが重要だと思います。

阪神・淡路大震災が発生した後、医師や看護師、薬剤師、理学療法士、精神科領域のスタッフなど、多くの専門職員が支援に駆け付けてくれました。そのおかげであの局面を乗り越えることができたのだと、福永さんは振り返ります。
応援に来てくださった方々に、スムーズに活動をしていただくための調整役という役割が重要でした。せっかく駆け付けてくださったのに、「何をすればいいですか」と聞かれたときはこちらも手一杯で…。こんな経験から、災害時に応援する場合は、支援者が自己完結できる体制が必要だと感じました。保健師なら最低限の情報と地図があれば、活動を始めることができるのではと思っています。


健康面だけでなく、心のサポートも保健師の役割

被災地の復興が進むに連れて、ふだんの生活に戻れる人と、戻ることができない人との差が広がっていくといわれています。健康面はもちろん、それぞれが抱える悩みを聞いて、気持ちをくみ取り、具体的な解決策を見出すために関連部署へつなぐパイプ役…という大きな役割を担う保健師さんたちの役割がさらに機能していくことで、健康面はもちろん、精神的にも経済的にも救われる方が増えていくのではないでしょうか。保健師さんはこれからも、やさしく、心強く、私たちに寄り添い続けてくれるに違いありません。
私たちが行政保健師としてできることは、体と心をサポートすること。キャッチした情報やニーズを、公的な立場として必要なサービスや関連部署につないでいくことが可能です。災害時だけでなく、日常的に、継続して地域の方々に関わっていくことが何よりも大切だなと思っています。今後、もし他の地域で大きな災害が起こったら、応援に駆け付けたい。支えてくださった自治体やボランティアの方々への、深いお礼の意味も込めて…



(写真/森本 奈津美 取材・文/山森 彩)

福永 尚美

保健師、神戸市須磨区健康福祉課に所属。保健師は看護の知識を持ったうえで地域に入り、地域全体の健康のために問題解決を図っていく仕事。阪神・淡路大震災後は避難所や仮設住宅、復興住宅と生活環境が変化する中、被災者の健康指導に携わる。現在も、公衆衛生や地域の介護予防など、地域の人々の心と体を幅広くサポートしている。

この記事を
シェアする


TOP


HOME