世界に誇れる話
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そこには、変わり果てた神戸のまちなみがありました。高速道路が倒れていて、パトカーに先導してもらいながら進み、ふだんなら1時間ほどで行ける距離を8~9時間かけて移動。ヘリコプターの爆音やサイレンが鳴り響く、ものものしい状況でした。到着して、上司や先輩がご遺体を拭いたり、棺(ひつぎ)をつくったりしたという話を聞き、私自身も棺に入れるドライアイスを紙に包み続ける作業をしたことはわすれられません。
目印になる大きな建物が倒壊していて、土地勘がある人でも道に迷う状態だったんです。地図が役に立たなかったので、医療班の皆さんを避難所へご案内する係をしていました。
こんなところで診療ができるのか…と不安になりましたが、皆さんに協力していただいて、なんとか救護所を設けることができました。医療班が定着すれば、とにかく診療ができます。その後はせきを切ったように、たくさんの方々が診察を受けに来られました。
眠っている時間帯に起きた災害だったので、着の身着のままで避難所へ避難した方が大勢おられました。慢性疾患をお持ちの方の常備薬、入れ歯など、ふだんはご自身で管理しているものがないという方も。哺乳びんや紙おむつ、生理用品なども不足していたので救援物資が届くたびに避難所を巡回して、必要な方にお配りしました。
あの経験が、避難所で生活しておられる方々と「共感できる何か」につながったような気がします。困っている方のご要望をお聞きして、可能な範囲で、限られた資源でまかなっていくことしかできませんでしたが、火事場の馬鹿力のようなパワーが全体的に満ちていました。当時は私も若く、体力もありましたが、心身共に疲れが出ても、弱音を吐いている場合ではなかったんです。
担当していた地域では、公園にテントを張ってつくった「テント村」で避難生活を送る方もいました。体育館などの避難所には間仕切りがありませんが、テントではそれぞれの事情に合わせて最低限のプライバシーを確保できます。しかし、やはり屋外なので劣悪な環境でした。頻繁に健康確認をしたり、物資の調達状況を見て相談に伺ったりすることもありました。
非常時ですから、皆さんがつらい状況に身を置いておられます。「どうですか」と声をかけ、寄り添うように話をお聞きするよう、自然と心がけていました。お子さんを亡くされたお母さんのお話を聞くと、どんなにつらいだろうと胸が痛みました。できるだけ、毎日のようにお顔を見て、声をかけるようにしていました。
仮設住宅や復興住宅は抽選で居住地が決まるため、なじみのない土地に移らなければならなかった方もおられます。ご高齢の方々を優先した入居が進む中、支え合ってきた地域の人たちと離れてしまう状態に。生活環境は改善されても、短期間で次々に生活拠点を変えざるを得なかったことや慣れない土地での生活は、精神的に大きな負担になったと思います。
もともと暮らしていた地域の支援、人的なつながりがない状態だったので、新しい場所でのコミュニティづくりも同時に行われました。ふれあいセンター(集会所)や復興集会などのコミュニティが次々につくられ、さまざまな場所で保健師が直接、健康相談をするようになったんです。
「おうちから出られない方には、インターホンを押しながら「○○さん、お元気ですか?」と声をかけていきました。何気ないことですが、こういう活動を通して、少しずつ人間関係が生まれていくんですんですよね。「また来てくれたんやね」と徐々に緊張がほぐれていきました。
地域の病院や介護情報など、近隣の情報を日常的に把握するように努めています。今では神戸市災害時保健活動マニュアルが作成され、各地域での体制整備も進んでいますが、神戸市役所でも震災を知らない若手職員が増えてきました。少なくとも、このマニュアルを読んでおいてほしいし、「災害時、どう活動すればいいのか」を考えるきっかけがあるといいなと思います。
東日本大震災が起こった年の7月頭の5日間、主に避難所を訪問しました。津波で、たくさんの命が一瞬にして奪われた大災害。阪神・淡路大震災と同様にご家族を亡くし、生活の基盤を失った方が大勢いらっしゃいました。直接できることはないけれど、つらい気持ちに寄り添い、話をお聞きすることでなら、お力になれるかも…と思っていましたね。
私が担当していた仮設住宅では、ある程度近い地域で暮らしていた方々が生活されていました。「困ったときは、△棟の○○さんに相談してる」というようなお声を聞いて、なじみのある方が近くにいて、困ったときに相談できるのは心強いだろうなと安心したんです。
災害は、いつ起こるか分かりません。「災害が起こったときに、自分の所属部署がどのように動くのか」を日常的に把握しておくように意識しています。また、公務員として迅速に出動するためには、家族の協力が欠かせません。私を含めて、職員はふだんから、家庭内で災害時の対応策を相談しておくことが重要だと思います。
応援に来てくださった方々に、スムーズに活動をしていただくための調整役という役割が重要でした。せっかく駆け付けてくださったのに、「何をすればいいですか」と聞かれたときはこちらも手一杯で…。こんな経験から、災害時に応援する場合は、支援者が自己完結できる体制が必要だと感じました。保健師なら最低限の情報と地図があれば、活動を始めることができるのではと思っています。
私たちが行政保健師としてできることは、体と心をサポートすること。キャッチした情報やニーズを、公的な立場として必要なサービスや関連部署につないでいくことが可能です。災害時だけでなく、日常的に、継続して地域の方々に関わっていくことが何よりも大切だなと思っています。今後、もし他の地域で大きな災害が起こったら、応援に駆け付けたい。支えてくださった自治体やボランティアの方々への、深いお礼の意味も込めて…