パン屋さん

夢のある話

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焼け残った店には人のつながりだけが残っていた。“寅さん”のパン屋さん くららべーかりー 石倉悦子さん

神戸市長田区では、阪神・淡路大震災の発生後に7,000棟近い建物が焼失した火災が起きました。石倉悦子さんは、自宅から新長田駅の方角を見て、「ああ、絶対に市場も燃えているな」と思っていたそうです。新長田駅の北側にあった山吉市場には、石倉さんが9ヵ月前にはじめたばかりだったパン屋さん「くららべーかりー」もありました。

ところが、奇跡的に店は無事でした。市場の西側まで火の手が近づいたとき、急に風向きが変わったというのです。半壊の被害に遭いながらも焼け残ったお店でパンを焼きながら、石倉さんはこんな夢物語を語っていたそうです。
大好きな映画「男はつらいよ」の寅さんがお店のボランティアにやってきて、みんなでにぎやかにパンを叩き売り。折しも夫の泰三さんが寝込んでいて、寅さんが私に恋をして……なんて話をしていたんですよ(笑)。

当時の石倉さんは、その夢が『男はつらいよ 寅次郎 紅の花』(渥美清主演、山田洋次原作・監督、1995年12月公開)でかなうなんて、想像もしていませんでした。

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障害を持つ人と一緒に地域で生活したいという夢

石倉さんが、障害者支援に取り組むようになったのは20歳のとき。妹さんに知的障害があったため、兄弟姉妹に障害を持つ人が集う「神戸きょうだい会」の活動に参加したのでした。その後、「くららべーかりー」をはじめ、障害のある人が地域で暮らしていくための作業所やグループホーム、NPO法人ネットワークながたを夫の泰三さんと共に立ち上げ、運営をしてきました。

現在、NPO法人ネットワークながたの正規職員は10名(アルバイト3名)。20年前に5人でスタートした共働作業所の利用者さんは35〜40人にまで増えています。ここに至るまで、石倉さんたちは一つずつ夢を叶えてきました。
35年くらい前には、障害のある人たちは親が亡くなった後は施設に行くしかありませんでした。しかも、当時の施設はすごく遠いところにあって、それまで暮らしていた地域から分離されてしまうんです。グループホームや作業所ができれば、地域で生活することができる。それが私たちの夢だったんです。

1991年、石倉さんは「神戸きょうだい会」の仲間とともに、社会福祉法人えんぴつの家を母体として、神戸市初のグループホーム「グループホームたろう」を立ち上げました。そしてその10年後、2001年には「グループホームえほん」を開設(現・共同生活事業所「ホームえほん」)。夢はどんどん大きくなり、「いつかは、自宅と作業所、グループホームが入居できるビルを建てたい!」と思うようにもなりました。
「くららべーかりー」と「ホームえほん」と私たちの自宅は三軒並んでいます。ビルにはならなかったけれど、横に並んで建っているんですよね。かなり夢を実現できましたね。

しかし、現在の場所で「夢を実現できた」と言えるまでに、石倉さんの身には大きな事件がいくつも起きました。その一つが、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災です。


揺れよりも「いろんな人に守られた」という記憶

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震災が起きた朝、石倉さんは部活の朝練に出る次女のために、お弁当を作っている最中でした。「地球規模で何かすごいことが起きたのではないか」とさえ思ったすさまじい揺れに驚き、朝食を食べていた次女のもとに駆け寄り抱きつきました。
フライパンを手に持ったまま娘のところへ行ったので、菜箸と炒めていたウィンナーが居間に転がっていました。ガスを消さなければと思うけれど腰が抜けて動けません。揺れが少し収まって「愛は!?」と慌てて長女の元へ行くと頭のすぐそばに大きなテレビが落ちていました。なぜかいつも寝ている場所から移動していて助かってくれたんです。

石倉さんは、生まれたときから重度障害を持っている長女の愛さんのことをいつも気づかってきました。それなのに、あまりの動揺に愛さんを思う余裕すら失ってしまったのです。

石倉さんご夫婦の親族は無事でしたが、それぞれの家は全壊。一部損壊したものの新築だった石倉さんの自宅とグループホームには、一時期15名が避難して共同生活を送りました。そして、震災からわずか2週間後の2月1日には、泰三さんとえんぴつの家の仲間で「被災地障害者センター」を立ち上げ、全国から来るボランティアさんの登録・派遣もはじめました。
おかげさまでね、「神戸きょうだい会」やふだんのご近所づきあいがあったので、翌々日までには被害が少なかった地域の人達がお鍋いっぱいのおでんを炊いて持ってきてくれたり、畑でとれた野菜やお米を背中いっぱいに背負って持ってきてくれたんです。揺れはものすごく怖かったけれど、本当にいろんな人に守られたんです。

「みんなマイナスからのスタート。これから一緒にやっていきましょうよ」。震災をきっかけに、これまでは孤立していた作業所も手を差し伸べ合い、つながり合うようになりました。また「くららべーかりー」があった、山吉市場の人たちとも交流が生まれました。
山吉市場は戦前からある古い市場。ほかの店主たちは、障害者が働いているのが不思議だったようで「何者が来たのか?」と見ていたんです。震災後に、いただいた支援金や物資で市場の前で炊き出しをしようということになって、市場のお店から仕入れをしたり、協力をお願いしたりしたら「あんたたちは何でそんなことができるのか?」と驚かれました。それから、市場の人もだんだん私たちを見る目が変わってきました。

17ichi22011年11月に開催された「一七市拡大版」のようす

17ichi1震災から20年、2014年11月に開催された「一七市拡大版」。小学生たちがエイサーを踊っています!

1995年11月からは、震災が起きた17日を忘れずに語り継ごうと「一七市(いちなないち)」というバザーもはじめました。すると、今度は市場の人たちが「17日にうちも安売りをするよ」と言ってくれたり、バザー商品を持ってきてくれたりするようになりました。一年後には、さらに多くの作業所が参加する「一七市拡大版」も開催。現在は作業所だけではなく、企業や長田のボランティアセンターなど約40団体が参加する規模に成長しました。小学生がエイサーを踊り、小・中学生はバザーの販売ボランティアをするなど、子どもたちも参加しています。

「一七市」をきっかけに、作業所仲間の交流ができたことによって、作業所の新商品開発部門ができました。長田区の長田中央いちばと商店街、小学生が一緒になって作業所体験に行き、作ったものを販売する「こども市場」というイベントも生まれました。


大好きな“寅さん”を呼んだ一通の手紙

kurara_bakery9くららべーかりーには『寅次郎 紅の花』のコーナーがあります

震災が起きた年の春、神戸では「寅さんを迎える会」が作られ、35,000名の署名を集めました。震災で傷ついた神戸の街で、映画「男はつらいよ」のロケをして寅さんに来てほしいというのです。そのことを知った石倉さんは、ある日ふと「私も手紙を書いてみようかな」と思い立ちます。
市場の中は真っ暗で、震災でみんな大変な思いをしているけれど、うちは全国のボランティアさんに囲まれて毎日にぎやかにやっています。長田に来てくれたらいいのにな、と。山田洋次監督の自宅住所を教えていただいてお手紙を送ってから4〜5日後でしょうか。監督直筆のはがきが来たんです。「さぞかし大変な思いをされたことでしょう。くららべーかりーさんのことは覚えておきます」とだけ書いてありました。お返事が来ると思っていなかったので驚きました。

そして、『男はつらいよ 寅次郎紅の花』神戸ロケの前日に神戸新聞の記者さんからの電話に、石倉さんはもっと驚きます。「映画に出てくるパン屋さんの名前は『イシクラベーカリー』ですよ!」。泰三さんがあわてて映画のセットを見に行くと、そこには「Ishikura Bakery」の看板がありました。
試写会にご紹介いただいて映画を観たとき、宮川大助さんが柴又の「寅屋」に訪ねていって「私は長田でパンを焼いてる石倉言いますねん」というシーンがあるんですね。そのセリフを聴いたときはもう鳥肌が立ちました。もちろん、パン屋の看板を観た時にも、エキストラでちらっと自分が映った時にも感激しました。あの映画は私たちの宝物です。

映画のセットで使われた「Ishikura Bakery」の看板は、今も「くららべーかりー」の店内に大切に飾られています。そして、現在の「くららべーかりー」の看板は映画のセットを真似て作られたものなのです。

kurara_bakery22くららべーかりー店内に飾られている映画セットの看板
あの映画にはどれほど元気をもらったことか。あの映画を観れば「こんなことがあったんだな」と震災を思い出すこともできます。あのとき、寅さんが長田に来てくれたことによって、長田と寅さんは切っても切れないものになっていると思います。

kurara_bakery7“長田の寅さん”の写真。こうして見るとホンモノみたいです!

泰三さんは、『男はつらいよ 寅次郎紅の花』のロケ地巡りなどのイベント時には、中折れ帽に背広、腹巻き、雪駄を履いて寅さんに変身。「ハッとするほど似ている」と評判の“長田の寅さん”を演じています。ふだんはシャイなのに寅さんの格好をすると、生き写しのように見事なタンカを切ってみせるそう。機会があればぜひ、“長田の寅さん”に会いに行きたいものです。


“寅さんのパン屋さん”のピンチ!に集まった支援の輪

kurara_bakery15『寅次郎 紅の花』映画セットの前でくららべーかりーの仲間と一緒に撮影した記念写真

“寅さんのパン屋さん”として知られるようになった「くららべーかりー」は、ほどなくして区画整理のために立ち退きになりました。そこで、新店舗を立ち上げる土地を見つけたのですが、周辺住民に「パンの匂いがいやだ」「障害者施設が来ると地価が下がる」と反対されてしまいます。そこで、新聞広告で見つけた現在の場所に決まったのですが、今度は復興基金を利用しても地代が予算をオーバーしてしまい苦境に立たされます。

すると、新聞各紙が「寅さんのパン屋さんがピンチだ」と報道。全国からカンパが寄せられたのです。仲間たちもカンパ活動を展開し、合わせて2,000万円も集まり新しいお店をオープンすることができました。

ところが、ようやく新店舗も軌道に乗り始めた2004年、「くららべーかりー」には、みたび災難が降り掛かりました。不審火による火事が起きたのです。
夕方7時に火事が起きて、夜9時のニュース番組で報道されたんです。すると、夜12時までに100人くらいの人がお見舞いにきてくれました。そこに、サンテレビの人も来ていて「むしろ、良かったんですよ」なんて言うんです。明日からどうしようか?というときに(笑)。「けが人もいない、類焼もない。こんなにお見舞いの人が来てくれている。留守中の火事でお向かいさんが水道で初期消火もしてくれた。良かったですよ」と言われて、私も「ああ、良かったんだ」と火事の大変さを忘れさせてもらいました。

「阪神・淡路大震災がなかったら、こんなふうに対応できなかったと思う」と石倉さんは振り返ります。翌日には、長田のボランティアセンターの人々が“災害対策本部”を立ち上げて「石倉夫妻は見舞客の対応だけをしていてください」と指示(!)。集まってきた作業所の仲間や区役所の人たちで手分けして、火事の後片付け作業を引き受けてくれたのです。


障害者が住みやすいまちをつくりたい

kurara_bakery1映画セットを真似てつくられた看板

「くららべーかりー」は“開かれた事業所”として、保育園、小学校、老人ホーム、障害者、企業の新人社員研修など、どなたにでもパン焼きやボランティアの体験に来てもらっています。その背景にあるのは、石倉さんたちの「皆さんのおかげで出来たお店だから」という気持ちです。
このお店はみんなに使ってもらいたいという思いがあります。見学も、お話を聴きたいというだけでもいい。地域にお世話になっていますから、地域のお店を利用してつながりを深めながらやっています。お店を建ててもらったのだから、こんどは「くららべーかりー」がみなさんにお返しをする番だと思っています。

もうひとつ、石倉さんには「障害者のことを知ってほしい」という願いがあります。企業のなかに障害者が働ける場所があれば、作業所は必要ありません。しかし、障害者雇用促進法があっても、雇用した障害者に適切な仕事を割り振ることができないでいる現状も見受けられます。
障害者雇用についてはもっと幅広い考え方をする企業が増えてほしいですね。企業では「これをしないとお金にならない」という発想ですが、作業所ではその人にできることをしてもらっています。販売が得意なら販売を、コミュニケーションをとるだけでも、その場にいるだけでも社会参加になります。

障害者が住みやすいまちは、市民にとっても住みやすいまち。心の面でも、設備の面でももっと障害者やお年寄りが住みやすいまちになれば、みんなが住みやすいまちになると思います。そのためにはやっぱり、自分の体を通して知ることが大事じゃないかな。

「誰だって人に喜ばれることをしたい。ありがとうと言われることをしたい」と石倉さんは言います。一緒に手を動かし、パンを焼いて「おいしいね」「ありがとう」と心から言い合えるひとときを過ごす。その体験が、まちを見る目線を変えてくれるはずです。

あなたも一度、「くららべーかりー」を訪ねてみませんか?


(取材・文/杉本恭子)
この記事はgreenz.jpの協力により作成されています。

石倉悦子

1949年神戸市長田区生まれ。幼稚園教諭、保母を経て、神戸市初のグループホーム「たろう」の立ち上げに参加。1994年4月、新長田駅北「山吉市場」内に障害を持つ人たちと共にパンを焼く「くららべーかりー」をオープン。阪神・淡路大震災後、1998年に区画整理のため現在の場所地下鉄「上沢」駅から徒歩5分の長田区三番町(現在地)に移転。2006年にNPO法人ネットワークながたを夫婦で設立。2008年に小規模作業所「七つの海」、2011年には継続支援B型「くららべーかりー」と生活介護「さくら」もNPO法人ネットワークながたの傘下に入り、多機能事業所「くららとさくら」として活動している。

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