二十歳

これからが気になる話

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乗り越えてこられたのは、人とのつながりがあったから。どうしてもかなえたい夢を追う。内山智帆さん・勲夫さん・弘子さん

097阪神・淡路大震災発生後、家族で避難した小学校の前で


自宅から脱出できたのは、見ず知らずの若者のおかげ

阪神・淡路大震災発生当時、神戸市東灘区に住んでいたという内山さんご一家。早朝、トラックの運転手であるお父さんを仕事へ送り出した後、ドンッという大きな音とともに跳ねるような揺れが起こった、とお母さんは当時を振り返ります。
突然のことで、なにが起こったのかさっぱりわかりませんでした。地震に気づいて起きた4歳の息子に「危ないから、布団をかぶっていなさい」と言って、揺れがおさまるのを待ちました。けれど、いざ脱出しようと思ったら、寝室にあった大きなタンスが倒れていて…寝室と玄関をつなぐ廊下がふさがれていたんです。

とにかく脱出しなくては、と隣接していたマンションにベランダから飛び移ろうと考えたお母さん。けれど、一家が暮らすマンションに隣のマンションが寄りかかっており、脱出することは不可能でした。
息子に、窓から助けを呼びなさいと言いました。息子が声をあげると、近所の方が気づいてくださり、すぐに見知らぬ若者が助けに来てくれたんです。息子が「僕の妹を先に助けて!」と叫んだので、赤ちゃんだった智帆を若者に託して、私たちも着の身着のまま、裸足で脱出しました。助けてくださったのがどなただったのか、今でもわからないのですが…4階に住んでいた私たちを外まで誘導してくださったおかげで、私たち親子はケガひとつなく、外に出ることができました。

後からわかったことですが、4階建てのマンションは1階部分が崩壊。階段もところどころ抜け落ちており、かなり危険な状態だったとか。その後、同じマンションに住んでいる方の車に一時的に避難。裸足だった息子さんのために、ご近所の同級生宅へ靴を借りに走ったといいます。

008インタビュー当日、急きょ、お父さんも話を聞かせてくださることに


あの日に限って、いつもより遅く家を出たお父さん

阪神・淡路大震災が発生した日、いつもなら午前4時に家を出るはずのお父さんが、めずらしく30分ほど遅く家を出たそうです。もし、いつもどおりの時刻に家を出ていたら、震災で倒壊することになる阪神高速道路をトラックで走っていたかもしれないのだとか。
僕は、震災が起きたときは会社にいました。神戸市東灘区の海際に社屋があり、周囲では地盤の液状化現象が起きていたので、しばらく動けなかったんです。あとから出勤してきた同僚が「まちが大変なことになってる!」と教えてくれたので、地震発生から1時間半ほどたったころ、あわてて家に帰りました。くずれ落ちたマンションを見て、家族は無事ではないかもしれないと絶望しました。けれど、ご近所の方が「ご家族は小学校にいるよ」と教えてくれて…あわてて駆けつけたんです。


人とのつながりがあったから、乗り越えられた

避難先の小学校でお互いの無事を確認しあった、内山さんご一家。余震が続き、そのたびに体育館の天井のランプが揺れるのがこわくて、グラウンドに避難したそうです。住んでいたマンションの西側では火事が発生し、煙が出ていました。

その後、近所にあったガスタンクがガス漏れを起こして爆発する可能性があったため、さらに1キロほど離れた公園へ避難。幸いなことに、ガス爆発は起きなかったため、再び小学校にもどった内山さんご一家は知らない人たちと身を寄せ合うようにして夜を過ごし、その後、1995年6月までのおよそ半年間、小学校で避難生活を送ったのだそうです。
当時、智帆は9カ月の赤ちゃんでしたが、まわりの方々には本当に親切にしていただいて、手がかかることはありませんでした。避難所では、1つの教室に数世帯が一緒に暮らしていて。みなさん、思いやりのある人たちばかりで…小さな子どもがいるからといって、肩身のせまい思いをするようなことはありませんでした。自宅で飼っていたザリガニを避難所で世話したいと息子が言い出したときも、「子どものためなら、いいやん」と快く受け入れてくださったんです。震災直後も、姉が30kmも離れた明石から歩いて物資を届けてくれたり、近くに住む友人がお風呂に入りにおいでと声をかけてくれたり…。人のつながりに助けられ、心細さを感じることはありませんでした。

074震災発生当時に住んでいたマンション付近を智帆さんが訪れたのは、この日がはじめて

震災から約6カ月後、仮設住宅への入居が決まった内山さんご一家は、神戸市東灘区にある人工島、六甲アイランドへ住まいを移します。そこで2年ほど暮らした後、神戸市灘区にある現在の住まいへ落ち着くことになりました。
もともと住んでいた地域から遠かったり、土地勘のないエリアに建てられた仮設住宅に住まなければならないなど、やむをえず不自由な暮らしを強いられた方が大勢いる中で、暮らしていた場所に近い仮設住宅で暮らすことができた私たちは、恵まれていたなと思います。ただ、息子は転校が多かったので、気の毒なことをしました。引っ越しが多くて大変だったけど、まわりの方々に助けていただいたからこそ、乗り越えてこられたのだと思います。


思い出したくなかったから、これまでは多くを語らなかった

智帆さんは、インタビューをおこなったこの日はじめて、震災当時の詳細を知ったといいます。
阪神・淡路大震災については、たまに話すことがあっても詳しく聞いたことはありませんでした。だから、今日はじめて知ったことがたくさんあります。体験はしているものの記憶がないので、神戸がそんな状態だったなんて…正直、とてもおどろいています。

もの静かなお父さんが、ぽつりと言葉を続けます。
思い出したくなかったので、これまでは多くを語ってこなかったんです。

複雑な想いを胸に、時折声を詰まらせながら当時をふりかえってくださった、内山さんご夫妻。阪神・淡路大震災から20年というこの節目の年を、どのように感じていらっしゃるのでしょうか。
娘がハタチになるので、20年経ったんだなぁという実感が強いです。智帆は、小学校の避難所で歩けるようになりました。今でも「智帆ちゃんが歩いたよ!」とみなさんによろこんでもらったことを覚えています。この子は、みんなに守られて育ってきたんですよね。

044ご両親をはじめ、たくさんの人々に見守られて育った智帆さん


智帆さんが、どうしてもかなえたい夢

そんな智帆さんも、現在は関西大学の2回生。社会学部でメディアや心理学など、さまざまな分野をふくむ「社会システムデザイン」というコースを専攻しています。智帆さんにはどうしてもかなえたい、幼いころからの夢があり、実現に向けて大切にあたためているのだとか。
小学生時代から、漫才師になりたくて。テレビでお笑い番組を見ているうちに、「芸人さんたちはどうしてこんなに面白い言いまわしを思いつくんだろう」と、とっても興味がわいたんです。大阪を中心に活動していた漫才師の方々が全国ネットで活躍していく姿を見て、憧れがいっそう強くなった面もありますね。だから、高校時代まで、ネタ帳をつくっては、友人である相方と漫才をしていました。

好きなことには、一直線。ひたむきに努力するという智帆さんですが、お笑いの道の厳しさも重々わかっているのだといいます。
ある女性漫才師さんにあこがれて、共にデビューを目指していた相方もいたのですが…彼女には別の夢があって。相方にはその夢を叶えてほしいと思い、自分の夢を考え直したんです。それでも、どうしてもお笑いに関わる仕事がしたくって…芸人さんのマネージャーになる!という夢を抱くようになりました。テレビ番組などを欠かさずチェックしつつ、ライブにも足を運んで、芸人さんをできるだけ生で見るようにしていて、「この芸人さんは今、どんな方向に向かっていきたいんだろう」などと勝手に推測したりして、自分なりに芸人さんの研究をしています。2015年からは、大学に通いながら芸人さんのマネージャーを養成する学校に通います。好きな分野では負けたくないので、根気強く努力していくつもりです。

065夢は、芸人さんのマネージャー。迷うことなく突き進む


家族が元気で暮らせることに、感謝している

ご両親は、智帆さんの夢をどのように受け止めているのでしょうか。
「中学を卒業したら、芸人さんに弟子入りする」と言い出したときは、さすがにおどろきました。けれど、本人が自分の意思で決めて、ぶれずにその道を進もうとしているわけですから、応援しています。震災が発生したとき、ご近所でも亡くなられた方がいて…。亡くなった方がたくさんいる中で、とにかく家族みんなが元気でいられることは、とてもありがたい。感謝の想いにつきますね。

ご両親から見た智帆さんは、なんでも自分でこなし、友だちにも恵まれ、人づきあいのいい…自慢の娘さんなのだとか。
両親から、こうしなさいと言われたことは一度もありません。芸人さんの弟子入りをしたいという話も、当時はもちろん本気で考えていましたが、友だちの助言があって大学への進学を決めました。私は、したいことを自由にさせてもらっているんですよね。

021未来について語りはじめると、笑顔がこぼれる

これまでは多くを語ってこなかったけれど、思いきって胸のうちを打ち明けてくださった、仲むつまじい親子の姿。くるくると表情を変えながら、的確に言葉を選んで話す智帆さんは、これからも大好きな神戸で暮らし続けたいのだそうです。
友だちがまわりにたくさんいますし、神戸が大好き。この先も、神戸をはなれることはないと思います。

これまでがそうであったように、これからも。智帆さんはご家族や友人、ご近所の方々に見守られながら、夢をかなえて、たくさんの人たちの心を明るく照らし続けてくれることでしょう。

uchiyama智帆さんからご両親へのメッセージ。想いがあふれると、言葉はシンプルになるのかもしれない


(写真/森本奈津美 取材・文/二階堂薫、山森彩)

内山智帆

1994年生まれ。関西大学社会学部の2回生、学園祭の実行委員。生後9カ月のときに神戸市東灘区で被災。小学生のころからお笑いの世界に興味を抱き、夢は芸人のマネージャーになること。

内山勲夫・弘子

父・勲夫さんは鹿児島県出身で、トラックの運転手。母・弘子さんは神戸市兵庫区で生まれ育った、生粋の神戸っ子。

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